冷めぬ熱病
「あれ? 随分遅いお昼ですね」
校舎に挟まれた中庭のベンチでお弁当箱を広げている女生徒に声をかけたのは、
背の高い人好きのする笑顔の男子生徒。
「あ、沖田先輩」
柔らかな秋の陽射しの中、振り向いた少女がニコリと微笑む。
「ちょっと担任に呼ばれてたんですよ。もうすぐ午後の授業が始まっちゃうのに」
少し膨れた様子でお弁当箱の中身を突いている。
「先輩こそ、こんな時間からお昼ですか?」
視線で指し示した先には少年の片手に握られたパンの袋。
あんぱん、ジャムパン、クリームロールと相変わらず甘い系統ばかりを選択しているらしい。
いつもの事ながら、あんなものが昼ごはんになるなんて信じられないと
少女が眉根を寄せてる事を気にもせずに少年が答える。
「えぇ。私も志望校の事で担任に呼ばれてたんですよ。昼休みが丸々潰れちゃいました」
少女が少し端に寄って開けたスペースに座ると、ガサガサとパンの袋を開けた。
「沖田先輩は受験生でしたもんね。部活ばっかりやってるから、全然そんな
感じがしませんでしたよ」
くすくすと笑う少女を眩しそうに見ながら、総司が口の端で笑う。
「神谷さんだって来年は同じ苦しみを味わうんですよ。その時はたっぷり
プレッシャーをかけてあげましょうね」
小さな反撃をしながらも、総司の視線がチラチラと自分の手元に注がれている事に気づいた少女は、
苦笑しながら玉子焼きを箸でつまむとその口元に持っていく。
パクリとそれに食いついた総司が満足気に目を細めた。
少年の名前は沖田総司。高校3年で剣道部前主将。穏やかな風貌からは想像もできないが、
これでも都大会優勝記録保持者で全国トップクラスの腕前である。
片や少女の名は神谷セイ。高校2年のこの少女もまた、人の目を引く愛らしい顔立ちに相応しくない事に、
剣道部の現副主将で、これまた女子の部では全国に名を轟かせている。
「あはは〜、プレッシャーですか・・・」
セイの瞳に影が差した事に気づいて総司が首を傾げる。
「私、年が明けたら引っ越す事が決まったんです」
「え?」
「父の仕事の都合で京都に。前々から話はあったんですけど、私が高校卒業してから
という話だったんです。でも父と仕事をしたいと言ってくれてた病院の院長先生が
身体を壊してしまわれて、急遽年明けから行く事に」
「あぁ、神谷さんのお父さんはお医者様でしたよね」
こくりとセイが頷いた。
「だから受験の時期に先輩にプレッシャーをかけられる事も無いですよ、きっと」
寂しそうに目を伏せたセイを総司は見つめた。
この子は知らないけれど。
初めてこの子を見かけたのは自分が中学2年の夏。
剣道の都大会での事だった。
自分の出番前にトイレに行っておこうかと試合会場を横切ろうとした時に、
すぐ脇で試合っていた女子の声に思わず振り向いた。
面の奥から響く威勢の良い掛け声は、どこか聞き覚えがあるようで、
胸を何かが走り抜けた。
どういう訳か足が動こうとせずにその場に立ち止まったまま、試合が終わり
面を取るその姿から目が離せず。
あらわになったその面に、今度は心が引きつけられた。
見覚えの無い少女のはずなのに、どこかで何かが叫んでいる。
身体の内から湧き出す熱に、喉の渇きが止められない。
どうにか自分の試合を思い出し、その場を去る事ができたのは随分時間が経ってからだったと思う。
それから毎年少女の姿を目にするたびに、身の内の熱は上がる一方で。
高校生の部に出場するようになっても、後輩の応援という理由を無理矢理つけて
中学の部の試合を見に行きもした。
そして彼女の中学最後の大会で思い知ったのだ。
決勝で負けた少女が始めて涙を零していた。
それまでいつも友達に囲まれて、真夏の向日葵を思わせる凛と鮮やかな笑顔ばかりが
印象的だったものが、その涙に改めて魅せられた。
白く滑らかな頬をはらはらと落ちる涙は、華やかにも儚く散りゆく桜花の花弁のようで。
この手に、掬い取りたいと心が呟く。
熱が増す。
真夏の熱持つ大気のように幾重にもこの身に纏いつき、心の内から熱に侵食されてゆく。
喉の渇きは心の乾きに。
もはやこの熱からは逃れる事ができぬのだと、思い知った瞬間だった。
そして少女は自分の高校に入学してきた。
あれから1年半。
未だ熱は冷めやらず、すでに乾きは耐え難い。
その子が遠く離れてしまう?
「京都ですか。偶然ですね。私の志望校も京都なんですよね〜。
ちゃんと合格できたら、向こうで会えるかもしれませんね」
考えるより先に口に出ていた。
京都の大学など考えた事も無い。
さっきも担任に自宅から通える都内の大学を希望してきたばかりだ。
むしろそれ以外だというなら、西ではなく北。
北海道の大学あたりに行くのも良いかと思っていたものを。
「え? そうだったんですか? でも京都の夏は暑いらしいですよ?
先輩夏が苦手じゃないですか」
セイが暑さに弱い総司を気遣って言葉を重ねる。
「だから・・・できたら北の大学に行きたいって言ってませんでしたか?
将来も北に住みたいって」
「そ、そんな事言いましたかね? でも京都って色々面白そうじゃないですか。
史跡なんかも多いですし」
慌てて言い訳をする総司の手の中で、すでに空になったパンの袋が音を立てる。
「それにね。和菓子の本場なんですよ? 楽しみじゃないですか」
ようやくいつもの調子に戻った総司が、にっこりと微笑んだ。
それを見たセイの頬が桜色に染まる。
この人は知らないけれど。
初めて総司を見かけたのは中学1年の時だった。
夏の剣道都大会で試合を終え席に戻った時に強い視線を感じた。
対戦者から向けられるその手のものに慣れていたから、何の気なしに
その視線の主に目を向けた。
視線が合った。
瞬間。
パシリと心に痛みが走った。
慌てて瞳を逸らしたけれど、心に響いたその衝撃は子供の自分には強すぎて。
そのまま心に蓋をした。
それから毎年、強い視線を感じ続け。
知らず自分もその少年を目で追うようになっていた。
名を知り、実力も知った。
“沖田総司”
その名を呟く度に心の痛みは痺れに変わり、蓋をした表層をじりじりと焦がす熱が身を苛む。
まるで真夏の焼けつく陽射しの激しさで。
中学3年の大会で後輩の応援に来ていたらしいその少年を見つけた時に思い知った。
男子の部の準決勝。
試合に負けた生徒が礼もせずその場を去ろうとした。
すいとその前に立った少年が、誰かから取り上げたのか片手に持った竹刀を
その首元に突きつけ、微笑った。
「礼は基本ですよ。戻りなさい」
静かな声だったが、そこには反論を許さぬ厳しさが滲んでいて。
この熱に焼かれたいと切望している自分を認めるしか無かった。
そして次の春、彼の高校に入学した。
それから1年半。
未だ熱は冷めやらず、焦がれる心は色を増す。
日に焼ける肌は小麦色に。
恋に焼ける心はいずれの色に染まるのか。
「受験、頑張ってくださいね。京都で待ってます」
「試験の日、お弁当を作ってきてくださいよ。甘い玉子焼きをたくさん入れて」
「はいはい、わかりました。期待しててください」
「うわぁ、頑張りますね、私。 玉子焼きの為に!」
呆れた溜息のセイの箸には、最後に残った玉子焼き。
当然の顔で口を開ける総司に笑うと、ポンとその中に放り込んだ。
幸せそうな総司の笑みにセイの頬が紅を刷く。
上目遣いに潤むその瞳に見つめられ、総司の耳が熱を持つ。
心の乾きが、心の火照りが、互いの熱を煽りたて。
総司が額に腕を当て、セイは頬に手を添えた。
沖田という名の熱射病
神谷という名の熱中症
熱い視線は絡んだままで。
先に病に倒れるのは、はてさて、どちらとなるのやら。
冷めぬ熱を見かねたのか、涼やかな秋の風がふわりと二人を取り巻いた。